歌舞伎の「三大名作」として人気が高く、2016年には国立劇場開場50周年記念公演として10月から12月までの三ヵ月をかけて30年ぶりに「完全上演」を行った。「忠義」や「恩義」という感情に対する感覚が変って来た時代の中で、『忠臣蔵』も庶民の一般教養との距離が出ていることは否定できない。

 歴史上の「赤穂事件」を元に、史実の浅野内匠頭と吉良上野介の喧嘩と裁断、それと大石内蔵助を筆頭とした家来の復讐を描いたドラマで、中でも大石に当たる歌舞伎の大星由良助は、立役であれば誰もが演じたいと思う、「卒業論文」のような役だ。全十一段のうち、『四段目』になってようやく登場するこの人物は、歌舞伎の演技における心理描写、いわゆる「肚」(はら)が特に重要視されている。全段の中で重い役目を果たす『四段目』と『七段目』では、同じ人物でありながら全く違う感覚や色合いを見せなくてはならないのも、難役と言われる理由だろう。

 歌舞伎は長大なドラマが多く、その中には多くの「趣向」が凝らされている。『仮名手本忠臣蔵』の場合は、「三人の切腹」がその一つだ。『四段目』では浅野内匠頭に当たる塩冶判官(えんやはんがん)、『六段目』では主君の大事に居合わせず、色ごとに耽っていた早野勘平、『九段目』では、判官が高師直(こうのもろのお)に斬りかかるのを止めた加古川本蔵。この三人が切腹をする。一人は殿中で刀を抜き、刃傷沙汰を起こした咎、一人は舅殺しの濡れ衣、一人は、可愛い娘の婚姻のため。男が命を捨てて願いを家来に託し、言い訳を立てる。

 江戸時代は、実際に起きた事件を人形浄瑠璃や歌舞伎に仕立てて上演するケースが多々あったが、実名を使えず、この『忠臣蔵』のように、仮名でありながら観客には誰であるかが容易に想像できる役名に替えて演じている。これは、『忠臣蔵』だけの話ではない。「三大名作」の一つ、『菅原伝授手習鑑』の主人公・菅原道真も、芝居の中では菅丞相(かんしょうじょう)となっている。

 先ほど、「趣向」の一つとして「三人の切腹」を例に挙げたが、まだ他にもある。これはむしろ底流を貫くもう一つのテーマ、と言っても良いのかもしれないが、「鎮魂」だ。言いがかりを付けられ、その相手を討ち果たすことができずに無念の涙を呑んで切腹を遂げた塩谷判官の霊が「怨霊」とならぬように、との想いが込められている。今の時代に「怨霊」などと言うと、大袈裟な物言いのようだが、井沢元彦が「日本の歴史は怨霊の歴史である」と喝破したように、古代から日本人の中には無意識・意識を問わず「怨霊」を恐れる心が根強く染み付いている。夏の怪談の季節になると、何の違和感もなく「祟り」という言葉があちこちで使われることをみても、この感覚が現代でも生きていることがわかるというものだ。

 江戸時代にドラマとして飛躍的な発展・充実を遂げた歌舞伎には、日本人の精神的な支柱が貫かれている作品が多々ある。だからこそ、時に荒唐無稽とも思える芝居でありながら、現代の観客にも感動を与えることができるのだ。もちろん、それだけが原因ではないが、日本人の民族性が色濃く現われている芸能であることは否定できない。

 『忠臣蔵』にしても、だからこそ延々と上演され、講談や浪曲などの他の芸能へも裾野を広げて行ったのだ。『忠臣蔵』を大切にしたい理由の一つはここにある。