2月25日の早暁、左とん平さんの訃報が入った。80歳だった。かねてから心臓の病気で療養中と聞いてはいたが、「痛恨」「無念」の気持ちである。

 「名脇役、逝く」との言葉が多く寄せられており、それは間違いではない。ただ、私はそれに「たぐい稀なコメディアン」であったことを付け加えたい。公私ともに幾つもの想い出を持てたことは幸せで、そのどれもが「笑い」と共にある。名前があっても偉ぶらず、気遣いの人でもあったが、抜群のコメディ・センスに裏打ちされた芝居と、東京っ子の「照れ」を持ち、あっさりと綺麗に笑いを取るのが巧みな役者だったという点で、「コメディアン」としての功績を加えたいと私は思う。

 ある喜劇で、丁々発止とやり合う場面で客席は湧き返った。終演後、楽屋へ顔を出したら、その場面で芝居をしていた相手に、「あそこね、ウケるんだけど、やり取りは二回でいいと思うよ、三回やるとくどくなるから」と話していたのを耳にした。飄々とした風情を漂わせながらも、芸に対する厳しさを垣間見た想いがした。こうしたことは、10代の頃から磨き続け、身に付いたコメディ・センスのなせる技だったろう。

 2010年の秋、前年に長逝した森繁久彌さんを偲んでのトーク・ショーを早稲田大学でした時のことだ。名優を偲んで想い出を語るに当たり、本来であればもっともらしい演題にしなくてはならないのだが、私はあえて「我らがオヤジ、森繁を語る」とし、左さんの軽妙な話術を予感させるものにした。
 当日、開始の2時間前に関係者が集まり、「飯でも食おうよ」と、昼食をしながら軽い打ち合わせをするつもりが、いつの間にかテーブルには生ビールのグラスがいくつも並んだ。その場で、すでに森繁さんの話題で盛り上がり、「あんなことがあった」「あの時はさぁ…」とお互いがいい調子になり、そのまま会場へ乗り込んでしまった。「今日は二回公演だな」と言いながら、私が聴かせたい話を聴衆の皆さんに大サービスし、話が逸れかかると何気なく本来の筋に戻しながらも笑いを誘うことを忘れなかった。
 
 70歳を迎える前から、今まで活動の中心としていた大劇場の他に、小劇場で『天切り松人情闇語り』というミュージカルを演じ、ご本人はいたく気に入っていたようだ。今までに出演していた大劇場とは違う観客との距離感の近さが、役者としての新たな気持ちを掻き立てられるのだ、と話していたのを忘れられない。地方公演にも精力的に出かけ、福島県の公演を訪ねた折には、終演後に、「呑みに行こう!」と舞台の疲れを見せずに、東京から駆け付けた私へのねぎらいを、さりげなく見せるジェントリーな側面も持っていた。

 このところ、俳優の訃報が相次ぎ、寂しい想いが募るが、左とん平という役者の歩みを振り返ると、三木鶏郎の「冗談工房」など、喜劇人としてエリートの王道を歩んで来たのだ、と私は思う。先に名を挙げた森繁久彌と共に芝居をしたのもその一つだが、同じ機会を得ても名優の芝居を盗もうとする気概があるかどうかで、その役者人生は大きく変わる。それがどうであったかは、改めて述べるまでもないだろう。
名のある人が亡くなると、「一つの時代が終わった」という表現が使われることが多いが、私はこの言葉を好まない。時代はみんなで創るものであり、ましてや、左とん平が持っていた「恥」からすれば「よせよ、そんな仰々しい」と言われそうだからだ。私は個人的なお付き合いを頂いていた俳優が亡くなった時は、「長い巡業の公演に出たのだ」と考えることにしている。だから、「時代が終わった」という言い方を好まないのかもしれない。またどこかで、「よぉ、中村ちゃん、久しぶりだね」という声を掛けてくれそうな気がするのだ。

 謹んでご冥福をお祈りする。

合掌