20世紀を代表する哲学者・サルトル。日本でも一時はブームのようにサルトルの戯曲を上演していた時代があった。しかし、それからしばらく、サルトルの戯曲はなぜか姿を消していた。私の記憶にあるのは『狂気と天才』ぐらいのものだろうか。「哲学者が書いた芝居」というイメージで難解と取られ、このところ上演頻度が減っていたが、1960年代から70年代にかけては、サルトルの芝居がずいぶんと上演された。特徴的なのは、プロの俳優ではなく、学生演劇での上演がかなりの数を占めていたことだ。学生運動の盛んな時代に、そのエネルギーは表現としての学生演劇にも放たれ、そこで多くの作品が上演されたのだ。この『アルトナの幽閉者』にしても、1961年に俳優小劇場の旗揚げ公演で『アルトナの監禁された人たち』の名で上演され、その後、1967年に早稲田大学の劇研が『アルトナの幽閉者』として上演して以来である。

1959年ドイツ、ヨーロッパ一の造船王と言われるほどの財を成した父親は、癌で余命が少ないことを知り、後継者を決めるために家族会議を開く。家族会議とは言っても、次男夫婦、娘の四人しかいない。後継者に弁護士の次男を指名するが、次男は拒否する。なぜなら、広大な屋敷には13年間部屋から出て来ない兄がいるからだ。兄は戦争で心に傷を負い、部屋に引きこもったまま、妹が面倒を見ている。死が近づく父親の最期の希望は、13年間姿を見せない長男と会うことだった。戦争に協力して財をなした父と、戦争ゆえに13年間引きこもらざるを得なかった親子がようやく対面を果たし、対峙する…。

全五幕に及ぶ長い芝居で、15分の休憩を一回挟んで上演時間は3時間25分という大作である。しかも登場人物は家族五人のほかに二人、合計七人しかいない。13年間の狂気を背負う長男のフランツを岡本健一が演じているが、3時間を超える芝居のうち、2時間は彼が喋っているのではないかと思える科白の量だ。この膨大な科白に立ち向かい、役の言葉として演じている、まさに力演とも言える出来栄えだ。不安定な精神が見せる薄気味の悪さや狂気ゆえの鋭さ、そうしたものの表現が実に巧みだ。ジャニーズ事務所の俳優の中では舞台歴が相当に長いだけに、力量がはっきりと分かる。ここ最近での最も良い仕事と言ってもよい。フランツを、そして次男のヴェルナー(横田栄司)を圧倒する父の辻萬長が好演だ。傲岸不遜でいながら家族への愛情を捨て切れない男の姿がくっきりと浮かぶ。

一見すると、一つの家族を取り巻く悲劇のようだが、その背後には言うまでもなく「戦争」という国家的、民族的、世界的な悲劇が大きく横たわり、戦後を舞台にしながら誰もがその影響から抜け出ることがいないでいる。広大な屋敷のいたるところに戦争の亡霊が重く横たわっている中での家族の悲劇なのだ。ここにあるのは親子の葛藤だけではない。兄・フランツと妹・レニ(吉本菜穂子)との近親相姦、ヴェルナーの妻・ヨハンナ(美波)のフランツとの不倫など、多くの問題が芝居の中で顔を見せる。「アルトナ」とは土地の名前で、タイトルの幽閉者は一見引きこもりのフランツのようだが、芝居が進むにつれ、この家族全員がそれぞれの観点で「幽閉者」であることが見えて来る。その中には自分たちで決めたルールから抜け出せないケースである「自縄自縛」もあり、自分が自分を「幽閉」しているかのようだ。サルトルは、立場の違う家族に起きる悲劇を描いたホームドラマを描きたかったわけではあるまい。物理的には家の中での幽閉、精神的には戦争という幽閉、あるいは呪縛を抱え込んだ家族の入れ子のような構造の悲劇がここに描かれている。こうしたどっしりした芝居は、新国立劇場ならではの仕事とも言え、2014年の観客にこの作品を提示する意味は大きい。残念なのは、初日が開いて間もないせいか、女優陣が自分の科白をこなすのに手一杯で、そのもう一歩先の演技を深めるところまで芝居が届いていなかったことだ。回を重ねれば余裕が出る、という芝居ではないが、千秋楽までに彼女らの芝居の密度が濃くなれば、もっと優れた舞台になるだろう。

先日の劇団民藝の『蝋燭の灯、太陽の光』でも感じたことだが、平日の昼間の公演ながら、若い観客を含め、良く観客が入っている。芝居は娯楽とは言え、お手軽ながら何も残らないものだけではなく、観客自身も一緒に考えるような重量感のある骨太の芝居が好まれ出したということだろうか。「入場料を払って難しいことを考えに行く芝居などつまらない」という意見は否定しない。しかし、つい数十年前の若者が、こういう硬質な芝居で自分たちの思考や哲学を学んで来たことも決して否定はできないだろう。観客に対し過剰なまでに親切とも言える芝居が多い昨今、こうした作品の胎動は、現代の演劇界の一つの希望でもある。