来年一月・二月の歌舞伎座での親子三代襲名披露公演を控え、松本幸四郎、市川染五郎、松本金太郎の三代が揃って現在の名前で舞台を踏む最後の公演となった。十一月の顔見世だけあって昼夜共にベテラン・若手と豪華な顔ぶれが並んでいる。その一方で、ベテラン勢にとっては今回が「一世一代」の気持ちで演じている物も多いだろう。歌舞伎界の世代交替を確実に感じさせる公演でもある。

 昼の部の一本目は市川染五郎の『鯉つかみ』で幕を開ける。この演目を巡るここ数年の状況を言えば、6年前の平成23年の四国・こんぴら歌舞伎で染五郎がしばらくぶりに上演した後、片岡愛之助が翌年に兵庫県の「永楽館歌舞伎」で上演、その後、愛之助が他のエピソードを盛り込んだ多幕物にするなどの試みを行っている。今回の染五郎の上演方法は、昭和48年に五代目片岡我當が、上方に伝わる演目として南座で上演した物に近く、眼目の鯉との本水を使った格闘の場面の前に、幕開きで蛍狩りを見せ、お家の重宝を探す場面と続く。この流れが一番いいようで、「一幕物」としての『鯉つかみ』では、ほぼ完成形と言ってもよいだろう。多くの新作歌舞伎が生まれる中で、過去の作品を換骨奪胎し、新たな工夫を加え、現行のレパートリーに組み入れた、という点では成功したと言える。

 第三場の本水の場面になってからの早替わりのスピードと立ち回りは、市川猿之助もかくやとばかりに見せ、吹替の使い方が巧いので、少しでも気を抜くと、一瞬混乱するほどだ。中村児太郎が芝居のヒロインに当たる小桜姫を演じているが、何と言っても作品自体が滝窓志賀之助と鯉の精が化けた偽の志賀之助の二役をどう演じ分けるかに焦点が当てられており、さして芝居の仕どころがある役ではない。

 染五郎の名での最後の歌舞伎、昼の部の一本目から早替わり、宙乗り、本水での立ち回りと大活躍だ。名前が変わっても役者が変わるわけではないが、「七代目市川染五郎」を襲名した舞台から、客席でその成長をつぶさに観て来た一人の役者の歴史を想うと、胸に迫るものがある。

 続いて、時代物の『奥州安達原 三段目』。歌舞伎座の本公演では11年ぶりとなる。この演目も、最近は上演の機会が減った作品の一つだ。平安時代末期に東北を支配していた豪族・安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)兄弟と、東国の源義家(みなもとのよしいえ)との間に起きた「前九年の役」(ぜんくねんのえき)を背景にした芝居だ。この場面には出ないが、主人公の袖萩には敷妙(しきたえ)という妹がいる。姉の袖萩は安倍貞任に、敷妙は義家に嫁いだことから、一家の中は敵と味方に分かれる。

 中村吉右衛門にとっては「家の芸」でもあるが、今、この場面だけを従来のように独立した一幕として演じても、現代の観客にはわかりにくいだろう、というのが正直なところだ。中村雀右衛門が演じる袖萩と、敷妙の血を分けた姉妹が、争いの敵味方である安倍貞任と源義家に嫁ぐ、という悲劇が見えないからだ。貞任に嫁いだ袖萩、義家に嫁した敷妙、その狭間に立つ両親の傔仗直方(けんじょうなおかた)と浜夕の老夫婦。「時代物」ではあるが、一家の悲劇を描いた作品の哀れが、このままでは観客に理解されない。

 雀右衛門の袖萩は初役で、「盲目の女芸人」の役どころに挑戦だが、どうしても三味線を巧く弾くことに気が行ってしまい、この役が抱えている境遇が見えて来ないのが惜しい。吉右衛門の貞任は、回を重ねているだけあってこの役が持つ剛毅な部分が良いが、公家に化けて館へ入り込んでいる設定であり、公家の柔らかみと、変わり目がより鮮明になれば、もっと面白かっただろう。

 この幕で最も良かったのは、八幡太郎義家を演じた中村錦之助。見事な時代物の御大将で、さしたる芝居をするわけではないが、凛然とした佇まい、科白の調子、その品と、良い出来だ。こうでなくては、安倍貞任と互角に闘えないだろう。

 夜の部の『新口村』も同様だが、近年、上演の少ない名作を今、舞台に乗せておくことには大きな意味がある。しかし、その時に、「昔のままで良いのか」を再検証しないと、現代の観客との間に距離感が出てしまう。この匙加減が難しいところだろう。

 昼の部の最後は江戸情緒纏綿の『直侍』。河竹黙阿弥の名作だが、明治期に入ってから書かれたものだ。清元の名曲、「忍逢春雪解」(しのびあうはるのゆきどけ)が流れる中、泥棒の片岡直次郎、通称「直侍」が、追手をかいくぐり、自分を想いわずらう三千歳(みちとせ)のところへ忍んで逢いに来たものの、直前に逢った同じ泥棒仲間の暗闇の丑松の裏切りで、ここにも追手が回った。僅かな逢瀬を楽しんだのも束の間、最期の別れになる、という話だ。

 尾上菊五郎の直侍、中村時蔵の三千歳のベテランのコンビ。菊五郎は今回が八度目となり、細かな仕草の一つ一つが、間然するところなく流れていくようで、江戸の風情をたっぷり感じさせる。世話物は、「時代物」のようにキチンとした型が決められているわけではない。それだけに、役者がまとっている雰囲気が舞台の良し悪しを決めるという点では、時代物とは違った難しさがある。時蔵の三千歳の芝居がサラサラと流れてしまい、段取りめいて見えるので、折角の名残を惜しむ場面での哀切な情感が伝わらないのが惜しい。按摩の丈賀の中村東蔵のサラリとした芝居が年功だ。この役がどうか、で芝居全体にも影響を及ぼすだけに、あっさりとしたところに江戸の芝居の風情が漂った。

 時代物にせよ世話物にせよ、歌舞伎が持つ「感覚」が、なかなか伝わりにくくなっている時代だ。その中で、自らが先人から受け継いだ芸の集大成を、観客にどう見せ、後輩にどう伝えるか、この公演に出演している大幹部たちの胸中はさぞ複雑だろう。この世代交替をどう乗り越えるか、に歌舞伎の未来が懸かっているような気がする。