初演から65年を経てもなお、多くの劇団やカンパニーで手掛けている名作である。アーサー・ミラーの『セールスマンの死』と並んで、現代アメリカ演劇の金字塔と称されることも多く、過去の舞台で言えば杉村春子、東恵美子、二代目水谷八重子(上演当時は水谷良重)、栗原小巻、樋口可南子、男優ではあるが「女形」の篠井英介、そして大竹しのぶと7人の「ブランチ」の姿を観て来たことになる。今回の舞台は、2002年に蜷川幸雄が演出したものの再演で、今回は演出にフィリップ・ブリーンが当たっている。

 ニューオーリンズの下町で、豊かとは言えないまでも、愉快な仲間たちとそれなりに楽しく暮らしているスタンリー(北村一輝)とステラ(鈴木杏)の二人のもとへ、ステラの姉で教師のブランチ(大竹しのぶ)が、辺りとは不似合いな装いや振る舞いで訪れる。疲れた神経を休めるためにひと夏の休暇を妹の家で過ごす、という話で、暮らしているうちにスタンリーとブランチの相容れぬ溝はどんどん深まり、一方で、スタンリーの親友・ミッチは(藤岡正明)はブランチに恋心を抱く。やがて、スタンリーに真の姿を暴かれたブランチは…。

 今回の舞台は、効果的な小道具になった「風船」をはじめ、舞台にいろいろな物や音が溢れ、それがニューオーリンズという町、そして人々の暮らしが持つ「猥雑感」とでも言うべき空気を醸し出している。その「一部」にスタンリーの家庭があり、そこに闖入して「猥雑」という秩序をかき乱すブランチの存在が際立って見える演出だ。時に、それがやや過多に感じる場面もあり、緻密に構築され、危ういシーソーの上に立つような人間関係をシンプルに観たいとも感じる。
大竹しのぶのブランチは、こうしたエキセントリックな役はもともと得意な女優だが、そのボルテージの上げ方がもう少し緩やかであった方がより効果的だったかもしれない。最初から、何かの予兆を打ち消すように喋る続けるブランチの狂気にも近い「不安」を強調する、という点では面白い役作りだった。北村一輝のスタンリーは、ブランチに「下品」「野蛮」「粗暴」と罵られる男でありながら、日本の下町の男が持つようなぞんざいな物言いの中にふと垣間見える「優しさ」が今までに演じて来た俳優とは違う点だ。それが強調されるのは、二幕に入り、観客として「もしも自分がスタンリーの立場だったら、確かに堪ったものではない」というシンパシーを持たせるところに通じているだろう。鈴木杏の妹・ステラは、ブランチの言葉や行動に戸惑いながらも、「姉妹」という血縁で結ばれ、多くの想い出を共有している肉親であり、反目するスタンリーを愛してやまないという矛盾した感覚をうまく観客に感じさせた。藤岡正樹のミッチは、ブランチへの想いが純粋であっただけに、真実を知って自分が裏切られたことを感じた時の絶望感が深く、陰影がくっきり表現されている。

 「ブランチは私自身である」と自叙伝の中で語っている作者のテネシー・ウィリアムズの台詞は、近年新しく訳された小田島恒志の台本を使用しており、過去の訳本に比べると、日常的な感覚や言語に溢れている。その分、観客の生活や感性に近くなっており、現代の観客には受け入れやすい言葉で紡がれているだけに、今後のスタンダードな訳本となりそうだ。

 どんな名作も、数を重ねることには歳月がかかり、その間に時代も変わる。観客の感じ方や、世間の環境の変化が最も大きいだろう。その中で、普遍的なテーマを持っている芝居は、何年経っても古びることはない。『欲望という名の電車』が持っている普遍的なテーマは一つではない。人間の抑えられない衝動、虚飾、見得、あるいは原初の感覚的な愛情…。こうした感情の姿の見せ方は変わるだろうが、我々が今のように生きている限り、それは永遠に続くものだ。ブランチが引き起こした悲劇を凌駕する現実が日々起きている現代の中で、この芝居が輝き続けている理由はそこにあるのではないか。