幕切れに、20段以上はあろうかという鉄の階段を、いささか背を丸め気味にしながらも、しっかりとした足取りで登ってゆく無言の松本幸四郎の姿に、「孤高」という言葉を想った。私は、この言葉は無闇やたらに使わないようにしている。しかし、すべてが終わった後も、なお遍歴の旅に向かおうとする決意をその背中に感じ、「孤高」とはこういう場合にこそ使うべきだと、久しぶりにこの言葉を頭の中から引っ張り出したのだ。

 何度観ても、入れ子のような多重構造になったこの作品は難しいものだ、と率直に思う。しかし、それは1200回を超えてなお演じている幸四郎も、回りの役者も同様の感覚だろう。回を重ねれば重ねるほどに、今までには見えて来なかった新たな発見があるのが芝居の怖さであり、面白さでもある。1969年に同じ帝国劇場でこの芝居を初演して以来、実に46年にわたって、遍歴の騎士、ドン・キホーテを演じ続けている幸四郎の胸の中には、芝居の荒野をひたすらに歩む遍歴の騎士がいるのだ。そんな事を感じさせる舞台だ。

 舞台は牢獄から始まる。教会を侮辱した罪で、セルバンテスが投獄されてくる。新入りを手荒く歓迎しようと、牢名主(上條恒彦)が「裁判をやろう」と言い出し、セルバンテスは「即興劇」の形で自らの申し開きをする。セルバンテスが創り出した田舎の郷士、アロンソ・キハーナ。この男は朝から晩まで本を読み続けた挙句、精神に変調を来し、何世紀も前の遍歴の騎士、ドン・キホーテとなって従僕のサンチョ(駒田一)を伴に連れ、遍歴の旅に出る…。幸四郎は、セルバンテスと、彼が産み出したアロンソ・キハーナ、そしてキハーナの頭の中にいるドン・キホーテの三人を一人で演じることになる。この三人は、同一人物でありながら別人でもあるのだ。周りの人物も、その時の場面の主人公により、演じる役が変わる。

 3年前の夏に演じた時との最も大きな違いは「年輪」だろうか。それは、「老いた」とか「枯れた」というものとは全く質が異なるものだ。3年の時間の間に、松本幸四郎という役者が重ねた歳月の年輪が、人物により深みを増し、香気をもたらした、ということだ。朗々と歌い上げる『見果てぬ夢』に込められたメッセージは相変わらず力強く、観客に大いなる共感を与える。人生は夢を追い続けるためにある。それが、どんなに遠く、難しいものであろうとも。確かに、一度限りの人生、自分の夢に生涯を賭けなくては、と思うと同時に、そのための「覚悟」がいかに重要なものであるかを、幸四郎は自らの役者としての軌跡で語っているようにも思う。

また、有名な「最も憎むべき狂気は、ありのままの人生に折合をつけてあるべき姿のために戦わぬことだ」という台詞は、何度聞いても胸を刺す。しかし、幸四郎のこのエネルギーの凄まじさはどうだろうか。2時間15分というもの、ほぼ出ずっぱりで多くの動きを軽やかに見せる芝居は、精神的な面でも肉体的な面でも苛酷だ。それを一画も揺るがせにすることなく演じる姿に、観客は共感し、感動を覚えるのだろう。

 1977年の公演から、1,000回近く牢名主を演じている上條恒彦の厚みに加えて風格のある芝居、歌声は見事なものだ。2009年から従僕のサンチョを演じている駒田一の安定感が増し、ドン・キホーテに対する想いが深まった。今回はヒロインのアルドンサに宝塚歌劇団出身の霧矢大夢を初めて迎えたが、この女性が持っている「肉感」が描き切れなかったのが惜しい。

 久しぶりに「強制」ではなく、劇場を立ち去りがたい想いの観客たちが続けるカーテンコールに出会った。