イギリスでの実話をもとに2005年に映画化された作品が、2012年にブロードウエイでミュージカルに姿を変え、そして「日本語版」になった。日本語版の上演台本は岸谷五朗が作成し、同時に演出協力にも当たっている。シンディ・ローパーが手掛けた音楽もノリが良く、明るく、パワフルでしかも温かなミュージカルに仕上がっている。

 開幕直前に「洒落てるな」と感じたのは、どこの劇場でも苦慮し、工夫を凝らしている「携帯電話に関するマナー」のアナウンスを、芝居に取り込んでそのまま幕が開いたことだ。そこに何の違和感もなかった時点で、この芝居の出来が分かったような気がする。

 イギリスの田舎町・ノーサンプトンの靴工場からロンドンへ出て来て、フィアンセの二コラ(玉置成実)と新しい生活を始めようとするブライス(小池徹平)。しかし、父が急死し、故郷へ戻ってみると、そこには大量の返品の山が…。このままでは倒産し、長年働いてくれた従業員を解雇せざるをえない、とやむをえず父の跡を継ぐことにしたものの、在庫処分の方法が浮かばない。何か手段はないかとロンドンへ出かけ、困っている「女性」を助けたつもりが、相手は女装の「ドラァグクイーン」のローラ(三浦春馬)だった。彼(彼女?)の壊れたブーツを見て、ブライスに倒産寸前の工場を救うアイディアが浮かぶ。それは、「女装趣味の男性たち」のための美しく、頑丈なブーツを作ることだった。しかし、彼のアイディアに工場の人々は猛反発する…。何とかミラノの靴の展示会に、「誰も見たことのない新商品」を出そうと頑張るブライスに、ローラも協力をすることになる…。

 三浦春馬のドラァグクイーンが、体当たりを突き抜けた芝居だ。鍛え上げた肉体でいながら、女装姿がおかしくないのは、鬱屈や葛藤を抱えながら生きるドラァグクイーンをからりと明るく演じているからに他ならない。美醜に力点を置くのではなく、「人間性」を重視して描いているからだ。対する小池徹平は、書道に例えれば楷書の文字のように、キチンとした芝居を誠実に積み上げてゆく。二人の計画には邪魔も入り、あわやというところで頓挫しそうにもなるが、二人が未来へ進もう、とする明るさと力が、この芝居の色を織り成しているようだ。工場の古株で、ブライスのやり方にことごとく抵抗するドン(勝矢)が、ポイントになる存在で、下手をするとベタな人情ドラマになりそうな場面を巧みに切り抜けて、肉体が持つ個性を活かして演じた。

 この芝居の二人主役の一人、とも言える三浦春馬が演じる「ドラアァグクイーン」は、まだ日本では馴染みのない言葉かもしれない。キチンとした定義が難しいところだが、愛する相手の性別に関係なく、自分の人間性を現わす手段の一つとして女装をする人々、とでも言おうか。舞台作品で言えば、『ヘドヴイグ・アンド・アングリーインチ』、『プリシラ』、『RENT』、『ビクター/ビクトリア』などにも登場する。演劇や映画の世界での影響が大きいせいか、ようやく社会でもいろいろな部分での「マイノリティー」(少数派)を排除や否定するだけではなく、理解し、共に歩もうという行動や理解が増えて来た。こうした影響を与えるのも、実話にせよ創作にせよエンタテインメントが大きな力を持っている証拠だ。
 

 平日の昼間の公演でも客席は満員で、ノリも非常に良い。小池徹平、三浦春馬の二人の人気者が紡ぐ世界を楽しみ、時には一緒に哀しみ、敏感な反応を見せる。よく「日本の観客は感情表現が下手だ」と言われて来たが、最近はそうではなく、こうして一緒に舞台を楽しむケースが増えている。質の良い舞台は観客と俳優が一体化すると言われるが、それにもいろいろなパターンがある。水を打ったように静まり返った中で、固唾を呑んで芝居に引き込まれる場合もあれば、この舞台のように、手拍子を打ち、芝居が終わった瞬間にあちこちで観客が立ち上がる、というのも一体感の一つだ。

 猛暑を跳ね返すかのような、旬の若い俳優のエネルギーが爆発するかのような盛り上がり方で、作品の力を増幅させるとこういう舞台になる、という一つの在り方を観た想いがする。